<体験記録:2011年3月11日、千葉県飯岡を襲った大津波>
(注)本記録は、2011年3月11日に発生した巨大地震による津波が千葉県北東部(旧飯岡町)に到達した際の被害を、その地域に住む著者が個人的な記録と見解に基づいて記したものです。当時の状況を伝えるため、実際の被害画像を掲載しています。
【3月11日の海。―襲来―】
私が自宅で美容室を始め、二年ほど経った三月のこと。
その「揺れ」は、小学生の女の子の前髪をちょうど切り終える頃に始まりました。
七、八秒が経った頃でしょうか。
「なんか、揺れが長いね。」
子供のお母さんがそう言いました。私もそう思いましたが、どうせすぐに治まるだろうと、最初は軽く考えていました。
ところが、揺れは治まるどころか、横への動きがどんどん増していきます。これはまずい、という感覚に変わりました。私は女の子の肩に手を添え、とりあえず椅子から落ちないよう、怖さが増さないよう配慮しつつ、駐車場に停めてある車に目をやりました。
車体は前後に大きく揺れ、今まで見たこともない動きをしています。その様子を見て、揺れが異常であることを改めて認識しました。
倒れてきそうな物を警戒しながら、揺れがおさまるのを見計らい、すぐさまテレビの電源を入れました。「よかった、テレビはつく!」すぐに必要だったのは情報でした。
隣近所の人も慌てて家から出てきています。また揺れが来るかもしれないと話し、駐車場の真ん中あたりに誘導しました。そして、髪を切り終えた女の子とそのお母さんは、急いで車に乗り込み家の方へと戻ります。
揺れの余韻が残る中、その時すでに私の意識は何となく海に向いていました。
家から海までの距離は420メートル。大津波が来た場合、とても安心できる場所ではありません。地震の次は津波。小さい頃の記憶ですが、父親に何度か言われたことが頭に残っていたんだと思います。
そしていったん店の中に入り、テレビに目をやりました。
驚いた、というより、現実を受け入れられずに数秒間呆然と立ち尽くしました。「嘘だろ……」
その画面には、日本列島太平洋側の全域に赤い点滅が印されています。「大津波警報」です。
今までの人生で何回か観たことのある津波注意報などではありません。大きな津波の到達が確定した、という告知でした。
間違いであって欲しいという思いから、何度も見直したりチャンネルを変えたりしました。どこも同じです。
「さぁ、どうする。」
冷静に対処しようと思い、即座にセルフトークをします。
子供たち二人は保育園。そこは一応避難所となっている施設ですが、少し迷いながら、妻と連絡を取るべく携帯電話を鳴らし続けます。auでは十回ほどのリダイヤルでつながりました。
すでにこちらへ向かっているとのことだったので、妻が到着する前に急いで子供たちを迎えに行くことにしました。
途中、お年寄りの方も避難のため何人か保育園に向かっていますが、急いでいる様子はありません。到着すると、子供たちも先生方も慌てる様子はなく、順次お迎えを済ませているところでした。
私は下の子を抱きかかえ、上の子は手をつないで急いで家に向かいました。途中、何度か余震もあり、ブロック塀が今にも倒れてきそうでした。
家につくと、子供たちには離れないよう言い聞かせ、とりあえず貴重品と大事な物をまとめておきます。正直、本気で避難する準備はしていませんでした。テレビの情報を見たにも関わらず、今まで津波に襲われたことが無いという”驕り”があったのだと思います。
一旦落ち着いたところで気になるのが、やはり海の様子、そして「実家」でした。私の家から、さらに250メートル海寄りにあります。母が美容室を営んでおり、父、兄、姉、姪、甥の六人住まいです。
子供たちのことは妻にバトンタッチ。車での避難準備を一応頼んでおき、私は自転車で実家へ向かいました。実家には高校生になる甥が一人残っていますが、すでに連絡は取れており、まもなく姪が到着し、車で避難するという話でした。
その間、旭市の防災無線からは、
「ただいま、飯岡沿岸部に津波が到達しています。海岸付近には近寄らず、避難してください」
という内容の放送が三回ほど聞こえてきました。
この「到達しています」という内容と、いつもとあまり変わらない**”緊迫感のない”**口調の放送を聞き、「なんだ、もう津波って届いてるんだ」「堤防で止まりそうだな」と、何となくそのような解釈をしてしまいました。同じように感じた町民も少なくないと思います。
「到達」と「襲来」の狭間で
津波が到達しているにも関わらず、海は静かです。
私は150メートル先の海岸線に目を凝らしました。
すると、うっすら道路が濡れているのに気がつき、その先には一人のおじさんが堤防の上に立ち、腕組みをして海を眺めています。津波が押し寄せているのに、それをのんびり眺めている人はいません。
何故道路が濡れているのか、そして「到達した」というのはどの辺りまで来たのか、あの人に聞いてみようと思い、自転車をこぎ出しました。道が濡れているのは、下水から逆流してきた海水だったようです。
近くまで行き話を聞いてみました。最初の波で堤防を八割ほど登ったらしいのです。見ると堤防の結構上の方まで水の跡があり、海の水は引いています。少し奥の波消しブロックあたりまで引いていました。
何となく薄気味悪さを感じました。
辺りを見回してみると、所々にまだ人が立っており、私もすぐ引き上げるつもりでいましたが、どうにも気になっていられません。
その間、消防車や緊急車両等は海岸線を一台も通りません。津波が気になり海岸道路まで来た人は皆、沖の方を見つめています。
私もおじさんと話しながら十分ほど経った頃です。
遠い沖の方に白い筋が見えました。海に向かって左方向、手前の「はとさき」堤防に重なるように横一線の長ーい筋です。
「あれは、何ですかね?」
私は指をさしてたずねました。すると、
「あー、来た、来たー来たー。」
おじさんは苦笑いしながら言います。
白い筋はジワリと向かってきます。真っ正面に来るわけではなく、さほど高さも感じません。確実に「津波」とわかるまでに少し時間がかかりました。しかし、ジワリと、間違いなく向かってきます。
その時はまだ、道路(海岸線)まで上がってくるのかなぁ……といった印象でした。
私は津波を待つ格好となり、自転車を逃げる方に向け、しばらく見届けます。
まず波の先端が消波ブロックの間を抜け、雑草のゾーンを覆い、這い上がるような海水は堤防の一番上をザバンと乗り越えました。最初に乗り上げたのは、八軒町の下あたり。
ちょうど乗用車も通りかかってしまい、波をかぶってしまいました。そのあたりでおじさんは「さて、俺も行くか」と退散。
堤防を登りきらない海水は行き場を探すように大きな黒い渦となり、それが五つ六つとひしめいています。到達した時には左方向からやって来た波でしたが、堤防を乗り上げ、こちらに向かってくるときにはやや右方向からでした。
押し寄せてくるというより、「あぶれ寄せる」という感じで、雑草の間の人が通るスペースをきっかけに、こちらにも登って来ました。
波の先端が自分の足元から約20メートルってところまで来て、感じました。
「これはまずい。こちらの通りにも上がってくる!」
急いで自転車に乗り、まっすぐ家に向かい、漕ぎ出しました。
町内の通りには、雑談でもしていそうな雰囲気のグループが二、三箇所見えます。まず最初に新聞屋さんのおばさんとお孫さんたちが駐車場の車付近にいたので、叫びました。
「波が登って来る! 早く二階上がって!」
ギリギリまで状況を見ていた私は、(さすがに二階までは水が届かないだろう)と感じ、勧告ではなく、なぜか”指示”のような言い方になっていました。当然、今からの避難では確実に間に合いません。まして私と違い、心の準備もなく突然黒い波が向かってくるのを目撃した場合は、行動できるかどうか……。
波は後ろに来ています。スピードはありませんが、異様な圧迫感です。残りの人たちにも同じように声をかけ、家に到着。
「二階上がれー!」入ると同時に叫びました。
コタツに入っている子供たち二人を引きずり出し、担いで二階の寝室へ。
二階の窓から道路を見ると、海の水は車を数台押し流しながら、今来た通りを登って来ています。もう念を送ることしか出来ません。
そして家の60メートル手前で止まり、その後スーッと引いていきました。
それを見届けた直後、気持ちは一変。すぐさま「避難モード」に移りました。
(もう一度来るかもしれない!)
先ほどまでのとりあえずの準備ではなく、紛れもない「緊急避難」です。もちろん人生初の本番。
車に貴重品、布団、薬など色々と乗せ、戸締り。どうなるかわかりませんが、とりあえず燃料を入れておきたい為、ガソリンスタンドに向かいました。
ガソリンを満タンにした後はコンビニへ。すでに人もバタバタと多く、陳列棚は今まで見たことのないようなガランとした状態です。何とか夕食と夜食分を確保できました。
その後、実家の人らと連絡を取りつつ、40メートルほどの高台、塙(はなわ)地区へ避難。車を大きな倉庫前のスペースに停めさせてもらいました。すぐ脇には自動販売機があり、ちょうどよい灯りとなっていました。
薄暗かったのですが、その一帯には五十台近くの車が避難しに来ていたと思います。その辺りは防災無線もハッキリとは聞こえない為、避難していない三川地区にいる友達に、津波警報が解除になり次第連絡くれるよう頼んでおきました。
「たぶん明日まで解除にならない」という声もあったので、一晩車の中で過ごす準備に切り替えました。
弁当やサンドイッチを食べ終えると、トイレを済ませる為、もう一度コンビニまで下りて行きました。辺りは真っ暗ですが、その後再び波が来た様子も無く、コンビニでは銚子の知り合いにも会い、様子を聞くことが出来ました。
ふと家の方を見るのですが、暗闇だったこともあり、おとなしく先ほどの場所に戻ることにしました。
ラジオをONにし、携帯も着信がすぐわかるようそばに置き、しばらく子供らの相手をしていました。
余震が起こるたび大きな倉庫の扉は「ガタンガタン」と音を立てますが、家族全員一緒にいる事ができたので、皆、落ち着いていられることができました。車も後部席がフラットになる為、大人二人、子供二人、ギリギリ横に寝られます。
途中何度も起きるのですが、その度に車の数が減っているのがわかりました。近くにいた母らもグッスリ眠る様子は無く、早く朝になるのを待っている感じです。
短いようで長い夜。明るくなるのが待ち遠しかったのですが、被害が心配でずっとソワソワしていたと思います。
そして迎えた朝
そしてam五時過ぎ、私は運転席に座りました。満タンに入れたガソリンは約半分に減り、辺りの車も十数台になっていました。
「五時五十分。」
陽は昇っていませんが、あたりが見えるようになると、隣りにいた母もシートベルトを装着。「そろそろか?」というアイコンタクトで出発。
まずは私の家の駐車場へ。妙な静けさはありましたが、変わらない様子でした。
そして私は身動きしやすい服に着替え、いち早く実家の方へ向かいました。
歩き出して間もなく、一面に泥が広がり、いろんな物が散らばっています。

すぐ先には車三台と自動販売機が道をふさぎ、右端には姪が使用している車がありました。

狭い間を抜けてその先へ。
さらにいろんなものが散乱し、辺り一面、海の黒い土が隙間なく広がっています。すぐ右手には、近所Mさんのアメリカンバイクが転がっています。車と違い浮かぶことのない鉄の塊がこんなところまで……。
この辺りまで進んで来ると、先陣を切って家を出た時の意気込みは無くなってきました。こみ上げる感情みたいなものは無く、ただいつもと違う雰囲気、いつも違う光景に、飲み込まれているだけだったと思います。
そして実家前に到着。
見るとすぐに店の角にある、家の隅柱が折れている事がわかりました。ずいぶん手前に大きな四駆車があったので、ぶつかっていったのが推測されます。

玄関のシャッターもひしゃげ、裏の勝手口にまわってみてもどこも開けられず、店の鍵も外からは回りません。一人ではどうしようも出来ず、助けを待ちました。


駐車場を見てみると、ブロック塀は倒れ、シャッターも壊れています。そこにも大きな四駆が乗り上げていました。

ここに来る準備をしている時に予想していたのは(海水が床に上がってしまったかなぁ)という程度のものです。
ところが、ガラス戸から中を覗いてみると、海水の跡がおよそ床上150センチ。
水が引くときの強さはある程度知っているつもりですが、一階は洗濯機の中でかき回したかの様な散乱ぶり。ここまでとは思いませんでした。
三十年間暮らした場所は、もう一つの家です。見ている事実を受け入れられずにいました。
後から到着した母、兄たちも家の様子を見て言葉を失います。
とりあえず私は窓ガラスを割らずに何とか中に入ろうと、もう一度あちこちと探り、結局裏手の父の椅子の真後ろのガラス戸を力ずくでこじ開け、何とか入る事が出来ました。

ガラス戸が中から色んなもので押され、しなり、今にも割れそうになっていたので、いち早くそれをどけ、どうにかこうにか店の出入り口にたどり着きました。
ようやっと内側から鍵を開けることが出来たので、そこから皆入ることになりました。

とりあえず”貴重品” ”現金”と指示があったんですが、金庫が全く見当たりません。あんな鉄の塊がどこに行くのか……ボヤきながら探しました。中は薄暗くゴチャゴチャです。ガラスも割れ、容易に移動も出来ません。

仮に”物盗り”が侵入したとしてもこれでは無理だろう。手を付けるにもどうしたら良いかわからずにいました。

二階は物が倒れているだけだと思うので、比較的移動する事ができそうな店から、二階へ続く階段への足場をつくりました。
しばらく苦戦していると、親戚の叔父が駆けつけ、ようやっと玄関のシャッターも開けることが出来ました。開けたはいいのですが、またも手の付けどころを考えるのに時間がかかります。手前の物から出すしかありませんが、冷蔵庫や冷凍庫、靴棚など、容易に動かせない物ばかりです。

こ、こんなのどうすんだ……。
(続く)▶【3月11日の海。―支え―】































































